初めて彼を見かけたのは、今日のような雨の日。彼は店の窓際、一番奥の席で文庫本を読んでいた。
ページをめくる、男の人にしては節の目立たないすらりとした指。思慮深い涼しげな目元。色素の薄いさらりとした髪。眉目麗しいと言ってもいいその姿は、私が持っている男の人のイメージを根本から覆した。
私は一瞬にして恋に落ちた。
私が、この珈琲喫茶でアルバイトを始めたのはちょうど梅雨に入った頃。
それまで普通の会社でOLをしていた私が、突然解雇されたのは不景気による人員整理のため。もともと、大したスキルを持っていなかった私が真っ先に首を切られるのは当たり前のことで、この不況下よくぞここまで雇ってくれたとすら感謝したくらいだった。
でも、収入が途絶えてしまうと家賃すら払うことが出来なくなる。かと言って、新卒だって就職難の時代。私のようなものがちゃんとした会社に簡単に再就職できるはずはなく、とりあえずバイトでもと思い駅に置かれているフリーペーパーを手にした。
ちょうどその時、この喫茶店で長年働いていた人が辞めてしまい求人を出したところに出くわし、私はすぐさま応募した。
この喫茶店の従業員は、マスターとその奥さん、そして私の3人しかいない。はっきり言うとそれで充分やっていけるから。この店はとても古めかしく、常連以外のお客さんは滅多に来ないため、店が混むことがない。街中に乱立するカタカナのコーヒーショップにいるような、今どきの若い人はまず近寄らない。
でも私、こういう時代を感じさせる喫茶店が結構好きだったりする。
「麻友ちゃん、これ5番テーブルにお願い」
カウンターに出されたマイセンのカップをトレイに乗せ5番テーブルに向う。 この店はお客さんが好きなカップを選ぶことが出来る。
実は私、大の洋食器好き。特に、カップ&ソーサーには目がない。
「お待たせしました」
今運んだ5番テーブルのお客さんは大のマイセンファン。マイセンはとても高価で自宅で揃えるにはお金がかかる。だからリクエストする人は多い。好きなブランドのカップでコーヒーを飲みたいという気持ちは、食器好きの私にはとてもよく分かる。ここの常連さんのたいていは、それ目当てで通っていると言ってもいい。
「麻友ちゃん、次はこれを8番テーブルにね」
8番テーブル。胸がどきんと高鳴った。
マスターがカウンターに置いたのは、直線的なラインが特徴のビレロイ&ボッホ。窓際の彼が最初に選んだのがこのカップ。それ以来特に希望がなければ、マスターは彼にはこのカップを使っている。
私は高鳴る胸の鼓動を押さえて、彼の指定席窓際8番テーブルへと向かった。
「お待たせしました」
コトリとソーサーに乗ったカップをテーブルに置く。
「ありがとう」
彼はいつも必ず「ありがとう」と言ってくれる。
今のところ、私たちの会話はこれしかない。しかも、これって会話というのかすら疑わしい。でも、彼と唯一言葉を交わせるこの時が今の私の最高の幸せ。 見た目の予想を裏切る、低めの声を聞くだけで胸がどきどきする。いつも、カチャカチャと不自然なほどカップが揺れてしまい、粗相をしてしまいそうで怖かった。
「どうぞごゆっくり」
私は無事コーヒーをテーブルに置くと、トレイを抱えて逃げるようにカウンターに戻った。
「麻友ちゃんもコーヒー飲むかい?」
戻った私に、マスターが声をかける。
どうやらお茶の時間がきたようだ。ここの店は本当にのんびりしていて、休憩も兼ねてマスターがコーヒーを入れてくれる。もちろん、カップも選べる。食器好きの私には堪らない時間だ。
カウンターの内側の壁面に飾られた、様々なカップたち。私は、お目当てのカップを探した。決めた、今日はこれ。
「マスター、今日はヘレンドを使ってもいいですか?」
「いいよ。ヘレンドを使うなら今日は紅茶の方がいいかな」
ヘレンドは可愛らしい丸いフォルムで、どちらかと言えばコーヒーより紅茶が似合う。
「いいんですか?」
「ああ、いいよ」
「それじゃあ紅茶でお願いします」
私はカウンターに座り、入れてもらった紅茶を口にする。
店に流れるクラシックを聞きながら、そっと8番テーブルを盗み見た。彼がここに来るのは、ほとんど雨の日ばかり。晴れの日に来るのを見たことはないかもしれない。
なんの仕事をしている人だろう。
見たところ、年の頃は20代後半。身だしなみの良さから、フリーターとは思えない。私は紅茶をすすりながら、じっと彼を見つめた。彼は、読んでいる文庫本に夢中のようだ。ここにいる時は、顔をあげることなく読み続けている。いつもそう。
だから、私は油断していた。まさか、彼が不意に顔をあげてこちらを見ることなどないと、勝手に思いこんでいた。
2011-05-14
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