食事を終え、化粧室へ行った私の耳に飛び込んできた会話に固まった。
「―― 見た?」
「うん、見た見た」
「あれって…あの…斯波さんだったよね?」
「そうよ。あの人を見間違えるわけないじゃない」
ここのお店は化粧室がゆったりとした設計になっていて、トイレの奥にお化粧を直すパウダールームがある。トイレを済ませた私は、化粧を直そうとパウダールームへ向かったところだった。
―― うわ、斯波さんの会社の人かな …
きっと、「どうしてあんな子といるのかしら」って会話が続くと思い、聞く前から胸がずきんと痛む。化粧直しはしたいけど、このまま入って行くには勇気がいる。だって、鉢合わせしたら向こうも気まずいだろうし、私も辛い。私はどうしたらいいのか分からず、ぎゅっとバックを握り締め立ち竦んだ。
でも、続いて聞こえてきた会話は予想外の言葉で。
「斯波さんって…笑うんだね」
え…? 私は一瞬、彼女たちの言った意味がわからなかった。
「私…初めて見たかも。だって、斯波さんって――」
もうひとりの子が言った言葉に、これ以上聞いてはいけないような気がして、私は化粧直しもせずに化粧室を飛び出した。なにか斯波さんの秘密を聞いてしまったようで、私は激しく動揺する。
―― どうしよう、どうしよう…。胸が…
ドキドキと脈打つ胸を押さえ慌てていた私は、化粧室を出て曲ったところで誰かとぶつかった。
「きゃっ、す、すみません」
「麻友ちゃん?」
「し、斯波さん……」
そこにいたのは先に会計を済ませ、私を待つ斯波さんだった。
「どうしたの?そんなに慌てて」
「あ、いえ」
「あれ。混んでいた?」
斯波さんは怪訝そうに私の顔を覗きこむ。あ、そうだ。化粧直してない。唇は食事をしたままの裸だ。
「あ、はい。少し」
私は嘘をついて誤魔化した。
「急がなくても良かったのに。でも、もう帰るだけだからいいかな」
そう言う斯波さんは、やっぱりいつもの優しい斯波さんで、私はコクリと頷く。
「―― はい」
「うん。じゃあ、行こうか」
斯波さんは、さりげなく扉を押さえて私を待ってくれている。
「ありがとうございます」
「いいえ」
やっぱりいつもの斯波さん。私の知っている優しく微笑む斯波さんがここにいる。でも、それが私をより一層混乱させた。
『麻友ちゃんの聞きたいことに答えるよ』
もし、この言葉がまだ有効ならさっきのことを聞いてもいいのだろうか。
私は、帰りの車の中でずっとこのことを考えていた。でも、なんて聞いたらいいのだろう。私は、気にはなるけど言いだすことも出来ずに窓の景色を見て黙り込む。 重苦しい沈黙。車内には、小さく音楽が流れるだけ。
「麻友ちゃん」
運転をしている斯波さんに呼びかけられ、ビクンと身体が強張る。
「さっきから黙ったままだね。お酒飲んだから眠くなった?」
「あ、いえ。あ、そうかな」
「眠かったら寝てもいいよ。近くなったら起してあげるから」
その優しい言葉に泣きたくなった。
あー、嫌だ嫌だ。斯波さんが心配してくれているのに、私ったらさっきから嘘ばかりついている。
「大丈夫です…起きてます」
「そう?無理しなくてもいいよ」
斯波さんが、こちらを見てにこりと笑った。会った時と変わらない笑顔。やっぱり、私は私の知っている斯波さんを信じたい。ううん。信じてる。もしかしたら彼女たちの言う斯波さんもいるのかもしれないけど。
私は私を好きと言ってくれた彼を信じたい。
だって、斯波さんのこと好きなんだもの。
「あ……」
今、気付いた。
私、斯波さんに好きって言っていない。斯波さんからは何回か言ってもらったけど、私は、自分の気持ちを一度も言っていない。 「好きになって」って言われているけど、もう初めから好きだった。
「どうかした?」
信号が赤に変わる。停止線で止まった車。斯波さんはちゃんとこちらを向いた。 さらりとした色素の薄い髪から覗く瞳に吸いこまれそう。
ずっと好きだった。雨の日に会える彼を。そして、今はもっと好き。
「好きです。私、斯波さんのこと―― 好きです」
突然の告白に、目を見開く斯波さん。一瞬、時が止まったように感じた。
2011-05-31
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