あの日から数日経った。絢斗さんから連絡はない。
「仕事、忙しいのかな……」
私は、絢斗さんがいつも座っていた8番テーブルを見る。あの頃は、毎日まではいかなくても週に何回かは絢斗さんに会えていた。でも、マンションの工事が終わって、絢斗さんはもうここに来なくなった。
ただ見ているだけから恋人にまで昇格して、全然幸せなはずなのに。前より会う機会が減ったのは少し寂しいな。この寂しさはなんなんだろう。
「麻友ちゃん。ちょっといい?」
8番テーブルを拭きながら溜め息をついていると、カウンターの中でマスターが手招きをした。
「おつかいを頼みたいんだけどいいかな?」
「はい。いいですけど」
「そう、良かった。ちょっと量が多いんだけど」
マスターは小さな紙に書かれた買い物リストを見せる。お砂糖と洗剤とキッチンペーパーと紅茶…。うーん。確かに、色々な店を回らなければいけない感じだけど。
「今日は雨降っていないから、自転車でまわれるし大丈夫です」
気分転換にちょうどいいかも。私は、マスターから買い物リストを受け取るとポケットにしまった。
「あ、そう言えば、駅前に新しい花屋が開店したらしいよ。可愛い店だって」
「えっ。そうなんですか」
マスターの言葉に私は弾かれるように顔を上げた。その顔を見て、マスターはふっ頬を緩める。
「麻友ちゃん、やっと笑った」
「え?」
「さっきから溜め息ばかりついてるからね」
「あ……」
やだ。そんなに溜め息ついていたんだ…。
「確か、今日明日は開店記念に花が貰えるらしいから、せっかくだから貰っておいでよ」
「―― はい」
少し気分が浮上した。
私はエプロンを外すと、マスターから買い物代を預かり買い物へと出掛けた。
駅前に出来た花屋は木目調な雰囲気の可愛らしい小さな店だった。開店サービスに配っている花は、大奮発のオレンジのハイブリットティ・ローズ。
うそっ。あんないい花配っているの?
買い物はほとんど終わり。たいていの品は駅前のスーパーで揃い、残りは紅茶だけ。駅向こうの紅茶専門店に行かなければならなかった。
お花は貰いたいけど、これからもうひとっ走りしなくちゃならないし…。葛藤した末、今は諦め、帰りにもう一度寄ってみることにした私は自転車のベダルに足をかけた。
あ、ローズの香り。
自転車をこぎ出そうとした私の鼻に、ふわりといい香りがした。私の横を綺麗な女の人が通り過ぎる。背の高い、きっちりとスーツを着た素敵な人。明るそうな表情と栗色の髪のその人は、花屋で配っているオレンジのハイブリットティ・ローズのようだった。
たった1輪でも存在感のあるバラのようなその人に、私は見惚れた。
「あのノッポビルの人かな……」
カツカツとハイヒールを鳴らし、姿勢のいい姿で歩くその人を目で追っていると、思いもかけない人の姿が目に飛び込んできた。
―― 絢斗さん……
絢斗さんだった。後姿だけど見間違えるわけがない。
「斯波くんっ」
あっと思っている間もなく、ハイブリッドティ・ローズの人が絢斗さんに声をかけていた。ポンと肩を叩き、振りかえった絢斗さんに何か話しかけている。しばらく何か話し続け、突然彼女が絢斗さんの耳元に顔を寄た。まるでキスをするような距離で何かを囁いている。絢斗さんの顔が少し焦ったように赤らんだ。
―― あんな顔…見たことない
親しげに話しているふたりの姿を見て、あの日から刺さったままの棘がチクリと痛んだ。
声も出ないし足も動かない。私とふたりの間には目に見えない境界線があるように感じた。スーツをきちんと着て革靴を履いているふたりに対して、ジーンズにスニーカーの私。
どこからどう見ても、絢斗さんと並んで歩く彼女こそが恋人に見えるのが悲しい。
―― もしかして…あの電話の…
並んでノッポビルに入っていくふたりを見送る私の胸は、不安で震えていた。
カランカラン。店のドアベルが鳴った。
「麻友ちゃん」
ぼんやりしていた私は、呼ばれた名前にはっとした。入って来たのはスーツ姿の絢斗さんだった。
「絢斗…さん。どうして」
「あれからまた出張に行っていて、今日帰ってきたんだ」
「出張…?」
「うん。それで、会いに来た。ずっと連絡も出来なかったから」
絢斗さんはそう言うと、私に「はい」とあるのもを差し出した。
「これ…」
「さっき駅前で貰ったんだ。麻友ちゃん、花好きでしょ?」
差し出されたのは、あのオレンジのハイブリッドティ・ローズ。私の胸がぎゅうと音を立てて痛んだ。
結局、あの後、私は花を貰いに行くことなく紅茶を買うと店に戻ってしまった。マスターには、品切れになって貰えなかったと言い誤魔化した。
私には、あのバラを貰うことは出来なかったから。なのに…。
「ありがとう……」
私は、絢斗さんから花を受け取る。さっきの光景を思い出して指が震えた。
「―― 麻友?」
お礼を言ったきり無言の私に、絢斗さんが少し腰を屈めて顔を覗きこんだ。
「あ、ごめんなさい…。もう終わりの時間だから、私、支度して来ますね」
きっと、今変な顔をしているかもしれない。私は、マスターに声をかけると奥のバックヤードに逃げるように駆け込んだ。
2011-06-18
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