それは突然の雨だった。
マンションの現場から駅前にある社に戻ろうとした時、それまで晴れていた空が急に暗くなってきた。今は6月。梅雨の入り口。いつ雨が降ってもおかしくない時期だった。
「まずいな」
僕は怪しい空模様を見ながら、少し歩く速度を速める。でもすぐにパラパラと雨が降り出し、雨粒が容赦なくスーツを濡らし始めた。駅前まであと少し。一気に走って行こうか…と思った時、ふと、一軒の店が目に入った。
『珈琲喫茶 雨やどり』
まるで今の僕の為にあるような名前の店だった。今時珍しい、趣のある店。ひと昔前にタイムスリップしたような店構え。
最近、チェーン店となっているコーヒーショップばっかり利用していた僕は引き寄せられるように珈琲喫茶の扉を開けた。
「いらっしゃいませ」
リンリンとドアベルが鳴って、カウンターの中から物腰の柔らかそうなマスターが僕を迎えた。抑えたクラシックの音色、珈琲を落とす音。そして、外から聞こえる雨音。それだけしか聞こえない店内。ここはざわめく駅前のコーヒーショップとは違う静かな空間。
ここにして正解だったな。
どこか心を和らげる店の雰囲気に僕はそう思いながら、窓際の一番奥の席に腰を下ろした。
僕が勤めているのは大手の建設会社。所属している部署はマンションの設計企画部。と言っても、それは3か月前までの話し。今はマンションの建設現場を担当している。
僕が企画から現場に異動願いを申し出たのはまだ肌寒い春の初めだった。
「現場に出たい?」
「はい。あのマンションを担当したいと思ってます」
希望したのは、僕が企画設計した公園横のマンション。
「現場に出たいって。なんでまた」
会社では企画は花形部署。そこから出て現場に出たいというのは部長にとって青天の霹靂に近い申し出だったのだろう。しかも、現場に関しては素人同然。僕が現場を希望するのはあり得ないことで、行きたがる理由がわからないという顔だった。
「まあ、理由はどうでもいい。結論から言えばNOだ」
案の定、部長はあっさりそれを退けた。
「どうしてですか?」
「どうしてって、だって困るだろ。君が抜けたら企画部はどうすんだ。あそこは君中心でまわっているだろ」
「それは大丈夫だと思います。僕の他にも優秀な人材は揃ってますから」
「いやでも」
食い下がる部長を切り捨てるように突っぱねた。
「大丈夫です。僕がいなくてもちゃんとまわっていきますよ」
どうせ僕がいたっていなくたって変わらないんだ。今まで、どんなに主張しても「社の方針だから」と一言で何度も企画変更を余儀なくされた。そして、「君に求めているのはこういうものだ」と押し付けられ、何度それに従ったことか。いつしか僕は会社での自分の存在意味に疑問を抱くようになり、何も書けなくなっていた。
「いやあ、困るよ、困るよ。斯波君」
部長は同じ言葉を何度も繰り返している。
大人気ないとはわかっている。でも、これは撤回出来ない。
「もしそれでも駄目とおっしゃるのなら、退社も考えています」
最後に賭けていたものをあっさり否定された僕の、最初で最後の反乱だった。
「もしよろしかったら、好きなカップをどうぞ」
席に腰かけ「珈琲を」と告げると、マスターはテーブルにお冷を置きながらそう言った。
店内を見渡せば、各自がそれぞれ違うカップで珈琲を飲んでいる。そうか、ここは珈琲だけでなくカップも楽しむ店なのかと勝手に解釈した。
「じゃあ、あのカップで」
カップの種類なんてわからない。でもせっかくだからと、僕はカウンターの後ろの戸棚に並んでいるシンプルなラインのカップを指差した。
「ビレロイ&ボッホですね」
マスターが復唱しカウンターに戻ると、僕は鞄の中から読みかけの文庫本を取り出した。と、間もなくだった。
「ただいま帰りました」
控えめな声とリンリンとドアベルの音が鳴った。
店主ひとりで切り盛りしていると思われた店だったが、アルバイトの子がいたようだった。柔らかな声に惹かれるように顔を上げて、僕は一瞬、呼吸が止まるかと思った。
彼女だ。
もう会えないと思っていた彼女がそこにいた。
「おかえり。ずいぶん濡れちゃったね。どこかで雨宿りしておさまってからでも良かったのに」
「ううん、これくらいの雨、大丈夫です。あ、これ頼まれたの裏に置いてきますね」
「ああ。悪いね」
僕は、マスターと笑いながら話す彼女に目を奪われたまま固まっていた。
「麻友ちゃん、これ8番テーブルにお願い」
珈琲を落とす音が止まり、いい香りが漂ってきたころ、エプロンをした彼女にマスターがカップを差し出した。僕の選んだあのカップだ。
「はい」
彼女はカップをトレイの乗せるとゆっくりこちらに向かう。僕は慌てて本に視線を落とし、彼女が近づいてくるのを待った。
「お待たせしました」
カチャリとテーブルにカップが置かれ、そっと視線を上げる。
「ありがとう」
「あ、…ごゆっくりどうぞ」
初めて彼女の声をそばで聞いた。
少しはにかむように笑った彼女の声は、この雨音のように透き通っているように感じた。
2012-05-20
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