「麻友ちゃん、ちょっといいかな」
仕事を上がる間際、店にお客さんがいなくなった時、マスターに呼ばれた。カウンターに座った私に、マスターは神妙な顔で話し出す。
「この店を閉めようかと思っているんだ」
「―― え?」
「実はね……」
マスターが言うには、奥さんのご両親が年を取りそろそろ同居する時期がきたとのこと。この店を畳んで、奥さん地元に一緒に戻りご両親の営む店を手伝う。ずっと悩んでいたけど、景気が悪くなった今、ようやく踏ん切りがついたらしい。
そう言えば、私がここで働き始めたのと入れ替わりで奥さんが店に出なくなっていた。もしかしたら、ご両親の面倒をみていたのかもしれない。
「ごめんね、麻友ちゃん」
「いえ、ご両親のことのほうが大切ですから。気にしないで下さい」
申し訳なさそうに謝るマスターに、私は首を振った。僅かな期間だったけど、マスターには親切にしてもらったもの。謝ってもらうことなど何もない。
「とりあえず、あと1か月はこのまま営業するから。麻友ちゃんは、その間に次の仕事先を探して」
「―― はい」
こうして私は、再び仕事探しをすることになってしまった。
「困ったなあ……」
マスターには「いいですよ」とは言ったものの、現実は厳しかった。バイトの帰りに寄った駅前の銀行で通帳を記帳してみてガックリと肩を落とす。バイト代は家賃、生活費は貯金から出していたせいで、通帳残高はじり貧状態。すぐにでも次の仕事を見つけないと、独り暮らしは続けられそうもなかった。
「はぁ……」
大きく溜息をつき、通帳をバックにしまったところで目の前の店に気づいた。開店したばかりの駅前に花屋だ。
なんとなく遠ざかってしまった花屋だけど、改めて店内を覗くと置いてある花は店主の好みなのか少し独特なのに気づく。バラの種類が多い。
「あ、可愛い」
私が一目で気に入ったのは、ペールオレンジのバラ。薄く、柔らかそうな肌のような色をした可憐なバラ。あの時配っていたオレンジのバラも素敵だったけど、私はこっちのバラの方が好きだな。
でも、今の私にはバラは贅沢品。うーんと悩んだ末、私は店の棚に並んでいたガラスの一輪挿しの花瓶を手に取った。
カチャリと合鍵で絢斗さんの家のドアを開け部屋に入る。部屋はひっそりと静まり返っていた。 合鍵をもらい「いつでも来ていいよ」とは言われていても、人の家に勝手にお邪魔するのはちょっとドキドキする。誰もいないのに、「お邪魔します…」と言いながら私は靴を脱いだ。
あの日、家に戻ると絢斗さんからメールが入っていた。
『また出張に行って来ます。今回は少し長くなるかもしれない。戻る日が決まったら連絡します』
仕事の忙しい絢斗さんは、また出張に行ってしまっていた。
私は部屋に入るとバックを置き、花屋の紙袋から買ったばかりの一輪挿しを取り出した。そして、キッチンカウンターに置かれたシャンパングラスから水を張った一輪挿しにバラの花を移しかえる。すっかり温くなっていた水に浸かっていたバラの花は、少し元気がなかったけどまだ枯れてはいなかった。
「これでもう少しもつかな」
一輪挿しをキッチンカウンターに戻し、シャンパングラスをスポンジで洗うとシンク脇に伏せて置いた。
寝室に行くと絢斗さんの匂いがするような気がした。近くにいるようで遠く感じる彼。私は、絢斗さんの温もりを思い出すようにベットに腰掛け、ゆっくりと身体を横たえた。
ここで絢斗さんに抱かれた。目を瞑って思い出す。腕の温もりや力強さや優しさを。耳元で囁かれた声を、無防備な寝顔、となりで聞こえた息遣いを。
閉じた瞼の裏に絢斗さんの笑顔が浮かび、胸がきゅんと切なくなる。
「会いたいなぁ…」
そう呟いた時、まるで私の独り言に返事をするかのように電話のベルが鳴り響いた。私は、心臓が飛び出るほど驚いて飛び起きた。
受話器を取る人のいない部屋で、電話のベルは鳴り続ける。
どうしよう……
ここに居ても、まさか電話を取るわけにもいかず、慌ててリビングに行ったものの私は電話の前で成すすべなく固まっていた。すると、電話は自動的に留守番電話の切り替わった。
『斯波くん? 携帯でないからこっちにかけたけど、私たちの家の設計図はどうなっているのかしら?』
話出した声と内容に私の身体は足元から凍りつく。
『それと、そろそろ戻って来たら? もう「お遊び期間」はお終いにしてもいいんじゃない?』
最後まで聞き終わった時には、私の頭の中はもう真っ白だった。
私たちの家…?
お遊び期間…?
頭の中で繰り返される留守電の言葉は、ずっと不安だった私の心を打ち砕いた。
「絢斗さん…嘘…だよね」
答える主のいない部屋。さっきまで元気のなかったオレンジのバラが、ガラスの一輪挿しの中で生気を取り戻し顔を凛と顔をあげているのが見えた。
2011-06-26
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