神戸で暮らし始めて3か月がすぎ、季節は冬を迎えた。
麻友のアルバイト先も決まり、僕も新しい職場の設計事務所にも慣れ、ここでの生活が軌道に乗り始めていた。
「ただいまぁ」
玄関から麻友の声。
設計事務所は土日のどちらかは出勤で、代わりに平日の火曜か水曜に休みが取れる。
これは建設・不動産業界では通常のことで、こうして僕が家で麻友を迎えることもある。
「おかえり。少し遅かったね」
読みかけの本をローテーブルの上に置き、僕はソファから腰を上げた。
「うん。ちょっと帰りにお買いものしてたら遅くなっちゃった。ごめんね、お腹空いた?」
「いや、大丈夫だけど。―― あれ、何か足りないものあった?」
こんな日の夕食は、前の日に麻友がシチューやカレーを作り置きしておいてくれていて、当日は温めるだけになっている。
今日は、ビーフシチューと、サフランライス。
頼まれた時間に炊飯器のスイッチを入れるのが僕の役目だった。
でも、わざわざ買いものに寄るようなものなんか無かった気がしたが。
「えっ…ううん。ちょっと…雑貨屋さんに寄っていたの」
「そう、いいものはあった?」
「う、うん。まあ…」
珍しく麻友が言葉を濁す。
雑貨屋好きの麻友が寄り道するのは珍しいことではなく、それ以上追及せず僕は麻友にコートを置いてくるように促した。
帰ってきた麻友が追加にサラダを作ってくれて、贅沢な夕食が終わった。
麻友は料理が得意というだけあって、独身時代に比べると格段と僕の食事事情は改善された。
前は、適当に買って帰ったもので済ませるか、飲みに行くか抜きにするか。
自炊など考えたこともなかったのだから。
「ごちそうさまでした」
食事を終えると、ふたりで使った食器を片付けにキッチンに立つ。
「あのね。今日は、お風呂先に入ってもいいかな」
麻友は使った食器を食洗機に入れる作業をしながら、僕に聞いてきた。
「ああ、構わないよ。僕は家にいただけだから、ゆっくり浸かっておいで」
いつもは自然と僕が先で、麻友が後という図式になっているが、特にこだわりなどない。
しかも、今日は働いてきたのは麻友なのだから尚更だ。
「うん。じゃあ…行ってくるね」
麻友は遠慮がちに言うとエプロンを外し、パタパタとタンスのある寝室へと向かった。
僕は麻友が着替えを抱えてバスルームに消えるのを横目に、ソファに腰を下ろしテレビのスイッチを入れる。
しばらくして、バスルームからシャワーを使う音が聞こえ始めた。
「絢斗さん……あやと…さん」
ぼんやりと見ていたテレビの音にかき消されるくらいの小声。
振り返ると、麻友がバスタオルを身体に巻き付け、リビングに繋がる廊下の扉から顔を覗かせている。
「どうかした?」
シャンプーでも切れていただろうか。
僕がソファから腰を浮かせると、麻友の口から思いもよらぬ言葉が発せられた。
「一緒に…入りませんか?」
一瞬、自分の耳を疑った。
実は麻友とは一緒に風呂に入ったことがない。
理由は「恥ずかしいからイヤ」。
何回か誘ってみたが、頑なに断られ続けていた。
ホテルにでも行けばまた違うのかもしれないが、もう一緒に暮らしている僕たちが、わざわざそういうホテルを使うことはない。
無理強いするのもどうかと思い、この件に関しては半ば諦め気味という状態だった。
「ダメ…ですか?」
麻友はリアクションが返って来ず、困ったように眉を下げた。
ダメなんてこと、あるわけがない。
返事を返す前に僕はバスルームに向っていた。
「それ、今日入ってきたばかりの入浴剤なんですよ」
仕事の帰りに寄った雑貨屋さんで、バス用品売り場を見ていた私に店員さんが話しかけてきた。
「これ、ですか?」
「はい。ひとりで入ってもエステ効果があるし、恋人同士で入っても好評なんですよ」
「恋人…?」
「ええ。最近は、こういう入浴剤を使って入られるカップルはとても多くなってますよ」
店員さんの言葉に思わず反応してしまう。
「麻友。一緒に入る?」
時たま、絢斗さんにお風呂を誘われる。
初めの頃は恥ずかしくて即座に断っていたけど、もう一緒に暮らし始めて少し経つ。
しかも、今度の6月には結婚するんだし。
今度誘われたら、OKしようと思っていたのに。
全然、誘われなくなってしまった。
きっと絢斗さんは、私が嫌がることは無理にさせないと思っているんだと思うけど。
「恋人にも好評か……」
私から誘ってみたら、喜んでくれるかな。
一緒に暮らすのはとても楽しくて幸せ。
ならきっと、一緒に入るお風呂も楽しいに違いないもの。
「あの…、これ下さい」
私は、店員さんのセールストークに乗るようにお勧めの入浴剤を手に取った。
家に帰ると部屋は暖かで、薄手のセーターを着た絢斗さんが出迎えてくれた。
絢斗さんは、火曜か水曜日の平日にお休みがある。
なるべくその日は私もアルバイトを入れないようにしようと思っているのだけど、今日はどうしてもお休みは出来なかった。
そんな日は、前日に夕食を作り置きしておいて温めればいいだけにしている。
なんでも出来ると思っていた絢斗さんは、お料理だけは出来なかった。
一緒に暮らし始めて、絢斗さんの知らなかった面もずいぶんと分ってきた。
「おかえり。少し遅かったね」
何気なく言った絢斗さんの言葉に、胸がドキンとした。
バックの中にはあの入浴剤が入っている。
勢いで買ってしまったものの、どうやって誘ったらいいのか、さっきから悶々と考えている。
「ちょっと、雑貨屋さんに寄っていて…」
「そう。いいものあった?」
絢斗さんが、シチュー専用の鮮やかな原色のホーロ鍋を火にかける。
また、何気なく聞かれた言葉に胸がドキンドキンと大きく鳴り、返事をする声が上ずった。
「う、うん。まあ…」
ああ…、私。
こんなんで、一緒に入りませんか…なんて、誘えるのかしら。
一晩寝かせたシチューは美味しくなっているはずなのに、その日の夕食は味など全然わからなかった。
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