昨日の洗濯物は全滅だった。そして、家に辿り着いた時の私はずぶ濡れ。 風邪をひかないように、家に着くなり熱いシャワーを浴びてホットミルクで身体を暖めた。
バイトの私は体調を崩すと、即家計に響く。まさに身体が資本。そう考えると、有給のあるOL時代はなんて幸せだったんだろう。
「麻友ちゃん、休憩にしようか」
「はい」
今日もお待ちかねのお茶の時間がやってきた。
「どれにしようかなあ」
もう知っているブランドのカップは一通り使わせてもらった。「んー」と棚を一段一段確かめて、棚の隅に有名なブランドだけど余り見かけないカップが目についた。
「あの。その黒いのってウェッジウッドのワイルドローズですか?」
「ああ、これかい? そうだよ」
「それって使ってもいいんですか?」
「いいけど、これはマグなんだよね。頂いたから飾ってあるけど。マグでもいいの?」
「はい。マスターが良ければ」
「うちはいいよ。じゃあ、今日はカフェオレを作ってあげる」
マスターはそう言うと小鍋で牛乳を暖め、私の分の豆をコーヒーミルに入れた。そして、棚からワイルドローズを取り出すとカウンターに座る私の前に置く。
「うふ、可愛い。ワイルドローズだ」
ウェッジウッドのワイルドというと、有名なのが「ワイルドストロベリー」。同じワイルドでもこっちのカップは余り目にしない。黒を基調としたデザインで一見優雅に見えるけど、良く見るとバラの花びらが一重。ちゃんと可愛い野生のバラが描かれている。
私は、初めて使うカップを見ながらコーヒーが落ちるのを待った。
その時、カタンと椅子をひく音が響いた。持っていた文庫本を脇に抱えレジに向かったのは彼だった。もちろん、今日は雨が降っている。
「ありがとうございます。――麻友ちゃん、レジお願い」
「はい」
マスターに言われ、私は急いでレジに向かった。奥さんは今日もお休み。ここのところ、奥さんはお休みすることが多い。
「ごちそうさま」
彼はいつものように500円玉で支払い、私は20円のお釣りを渡す。そして「ありがとうございました」といつものように頭を下げ、彼を見送る。彼があのノッポビルに勤めていることを知ったけど、だからといって何も変わることなく、私と彼の関係は以前と同じ店員とお客様。
それはいつまでも変わることのない事実。
私はレジを済ませると8番テーブルへ向かった。いつものビレロイ&ボッホのカップを下げ、テーブルを拭いていると下に何か落ちているのに気づいた。
「これって…、社員証?」
落ちていたのは免許証サイズの社員証だった。
これって、大切なものなんじゃない?
一応、OLの経験はあるから社員証の大切さは知っている。会社によってはロック解除に使うところだってあるし、無いと気づいたら困るに決まっている。私ならパニくる。
「マスター! ちょっと忘れ物を届けてきます」
雨は小雨。私は傘もささずに、彼を追って喫茶店を飛び出した。
店の外には傘の花が咲いていた。赤・青・黄色そして黒。彼はどっちに行ったんだろう。右? 左? たくさんの傘の花が邪魔をしてわからない。
どうしよう。このままじゃ完全に見失う。
私は、とっさに社員証の名前を確認した。斯波絢斗(しば あやと) 28歳 K建設。
斯波さん。斯波絢斗さんって言うんだ。
「斯波さん…。すみません、斯波絢斗さん…いませんか」
初めて知った彼の名前。その名前を初めて呼ぶのが、往来の真中になるとは思ってもみなかった。 私は、不躾な冷やかしの視線を我慢して、彼の名前をしばらく呼び続けた。
私の声に一瞬止まる傘の花は、すぐに動き出す。もう、彼は行ってしまったかもしれない。
ああ、また今日も雨に濡れちゃったか。私は濡れた身体を抱えるように抱きしめた。
これは店で預かっておこう。
諦めて店へと歩き出した私を、あの低音ボイスが引きとめた。
「待って」
振り向いたそこにいたのは、彼だった。
「斯波です。斯波絢斗です」
色とりどりの傘の花の中、紺色の傘をさした彼だった。
2011-05-18
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