時間は流れ出したのに、僕はなかなか彼女との距離を縮められずに焦っていた。
現場が休みになる雨の日だけに訪れる珈琲喫茶。間もなく梅雨も明けるし、現場の作業も終了する。このまま何もせずにいれば彼女との時間が終わってしまうのは目前に迫っていた。
だけど、どうすればいいのだろう。
店内で声をかけるのは躊躇われるし、会社勤めの僕には彼女が仕事を終えるのを待ち伏せする時間はない。
何よりも、行動に移して彼女に拒否されるのが一番怖かった。
僕の人生で、こんなにも結果を恐れたことなどなかった。勉強でも仕事でも、そして恋愛でも、器用に卒なくこなしていた僕にとって、これは初めての経験。まして恋愛に至っては、たとえ失っても未練すら持たなかった。それが、手に入れる前から失うかもしれない可能性に不安で心が揺れるなんて。
その日も、いつものように彼女の店を訪れた。
時を同じくして、ちょうど彼女もマスターに声をかけられ休憩時間に入ったようだった。いつものように目を輝かせ戸棚に並んだカップを選ぶ。たくさんのカップの中から彼女は黒いマグカップを選んだ。
彼女は目の前に置かれたカップを手にとり愛おしそうに眺める。
その姿は、あの公園で見た花の蕾を愛でる彼女の姿と重なった。あの時、彼女は花を見ながら小さく囁いていた。僕はその声を聞きたいといつも思っていた。
静かな店内。カウンターにいる彼女の声も僕に届く。
「うふ、可愛い。ワイルドローズだ」
彼女の口元が優しく綻び、声が漏れた。
ずっと聞きたかった。きっとあの時も、同じように囁いたに違いない。
その声を、その笑顔を自分のものにしたい……。その声で僕の名を呼び、愛おしむように見つめてもらいたい。そう思った時、僕の中で不安よりも彼女を欲する気持ちが強く上まわった。
読んでいた文庫本を閉じ、ジャケットの内ポケットから社員証を抜き取る。そして、それを座席テーブルの下に落とした。
彼女の手から僕の元へと戻ってくることを願って。
「斯波さん…。すみません、斯波絢斗さん…いませんか」
そぼ降る雨の中、彼女が僕の名を呼ぶ声が聞こえる。
彼女は僕の願い通り、わざと落とした社員証を手に店を出た僕を追ってきてくれた。
ただ、僕の予想と違っていたのは、彼女は傘もささずに来たということだった。小さな水滴が彼女の髪や頬をそして、肩を濡らしていく。
まさか彼女をそんな目に合わせるつもりなどなかった僕は、急いで彼女に駆け寄ろうとした。でも、赤青、ピンクの傘がそれを阻む。傘の向こうには彼女がいるのに、わずか数メートル先には彼女はいるのに。
「くそっ…」
色とりどりの傘の河が僕の行く手を阻んだ。
「待って」
ようやく傘の河を渡り彼女に声をかける。驚いたように振り返った彼女の前髪から、雨のしずくがぽとりと落ちた。大きく見開いた目は心なしか潤んでいるようにも見え。
悔やまれた。
どうして、こんなことを彼女にしてしまったのだろうと。彼女の優しさを利用して出会いを作ろうとしてしまったことを。
「斯波です。斯波絢斗です」
濡れた彼女を抱きしめたい気持ちを必死に抑え、僕は彼女に傘をさしかける。
初めて向かい合ったふたりに静かに雨が降り注ぐ午後だった。
2012-06-17
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