私の手元に1枚のチケット。
「麻友ちゃんがお休みの時に来て、渡しておいて欲しいって言われてね」
さすがに二日連続はまずかった。彼を追って雨に濡れた夜、私は発熱した。私が休んでいる時に彼は店に来たらしい。そして、マスターにこのチケットの入った封筒を託した。
「今度の日曜日、11時にここで待ってますって伝えてくれって」
マスターは彼からの伝言も預かっていて、「その日は休んでいいよ」って笑って付け足した。
「その個展って人気あるやつでしょ? 良かったね」
「はあ……」
「どうしたの? デートに誘われたのにあんまり嬉しくなさそうだね」
「いえ。そ、そんなことはないですけど…。これって…デートですかね?」
「え、そうでしょう。違う?」
「――いえ…たぶんそうだと思いますが」
とは言ってみたものの、私は何か納得出来なかった。
だって、あの日私は彼に忘れ物を届けただけ。しかも、傘もささずに雨に濡れた私は、彼に店まで送ってもらう手間までかけてしまったのだから。
それなのに、こんなことして貰っていいのかしら。
私は複雑な気持ちで手にしたチケットを見つめた。
「いいじゃない。たまには楽しんでおいでよ。若いうちだけだよ、こういうことは」
マスターはそう言うと私にコーヒーを出してくれた。そのカップは彼がいつも使っている、ビレロイ&ボッホ。
私は彼のことを思い出した。
あの日。あの雨の中、私は初めて彼とちゃんとした会話をした。
「斯波です。斯波絢斗です」
彼は名前を言うと、私の前にすうっと近づいてきた。間近で見る顔は、やっぱり素敵。私は声が上ずった。
「あ、あの私、珈琲喫茶の者ですけど」
「知ってますよ。麻友ちゃん…ですよね」
初めて彼と言葉を交わしたことと、彼が私の名前を知っていたことで私は情けないくらい舞い上がる。
「えっ…、あ…そうです。あっ、あの、これ」
雨に濡れないようにエプロンのポケットにしまっていた社員証を、彼に突きつけた。やだ、これじゃあまるで怒っているみたいじゃない。
「あれ。どうしてこれを?」
でも、彼はそんな私の態度を気にもせず、私が持っていることを不思議そうに社員証を受け取った。
「テーブルの下に落ちてました」
「そうでしたか、すみません。わざわざ届けてもらって。――ありがとう」
「いえ…」
ああ。悲しい。緊張で、無愛想な返事しか出来ない。
なのに、彼の声は穏やかで優しい。
「それに…こんなに濡れて。本当にすみません」
その時気づいた。私はさっきから雨に濡れていないって。 代わりに彼の肩が濡れているって。
「あ、傘……」
「お店まで送りますよ」
「……すみません」
お粗末な受け答えしか出来ない私。
その後は何も会話はなくて、いくら紳士な彼だってきっと呆れたって思っていた。
日曜日は二日後。
梅雨の晴れ間に当たったのか、昨日からお天気が続いている。天気予報では明日も晴れ。たぶん、日曜まで彼が来ることはない。私が逃げなければ、私は彼と日曜日にデートをする。
笑わないで。私は今晩から、ローズヒップ・ティを飲み始めた。
「酸っぱい……」
酸っぱいのは苦手だけど、ローズヒップ・ティには美肌効果があるらしい。約束の日まで、たった二日。付け焼刃とは思うけど、気持ちは分かって欲しい。どうせ行くなら少しでも綺麗な私でデートに行きたいって。
初めて話した彼は、大人で素敵な人だった。
こうしてローズヒップ・ティを何杯飲んだって意味のないことだって分かっている。でも、99の諦めと1の期待をこめて、私はローズヒップ・ティを飲み干した。
2011-05-18
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