「ねえ、アヤ兄たんは、サラの本当のお兄たんなの?」
目の上で綺麗に切りそろえられた黒髪の下から、真剣に問いかける黒い瞳。
まるで日本人形のような容姿をした妹の沙良からそう尋ねられたのは、沙良が3才、僕が中学に入った頃だった。
「どうして、アヤ兄たんだけ違うの?」
それは、僕が物心ついてからずっと心の底にあった疑問そのものだった。
僕の家族は両親、兄、僕、妹の5人家族。3つ上の兄と僕と両親の時から気にはなっていたが、年の離れた妹が生まれた時、喜びよりもまず生まれた気持ちは、
僕はこの家の子供なのだろうか……と、いうものだった。
それほど、僕と家族の容姿はまるで違っていた。
どちかと言えば和風な顔立ちの家族と反対に、色素の薄い髪、肌、瞳をもつ日本人離れした特徴を持って生まれた僕。そんな一見するとハーフのような顔立ちの僕には、幼い頃から「ガイジン」という単語が付きまとった。
その言葉の意味を知るのは小学校に入る頃だった。その頃からずっと、聞きたくても両親に聞くことも出来ずにその疑問を胸の奥にしまっていた。今になって思えば、もしかしたら…という真実を知るのが怖くて目を背けていたのかもしれない。
「沙良っ!」
たまたま居合わせた母が驚きの声で妹を窘める。ワッと泣き出す妹を宥めながら、僕は母に言った。
「母さん、もう僕は大丈夫だよ」
もう今なら真実を聞いても大丈夫、と思った僕は長年胸にしまっていた疑問を母にさらけ出した。
「あなたは私たちの本当の子供よ」
僕の言葉に、母は泣いた。
その晩、父と兄を交え僕に渡されたのはモノクロの写真が貼られたアルバムだった。そこには僕とよく似たひとが映っていた。
「明治の初期頃に、私の家系に異国の人と結婚したひとがいたの。本当に遠い血のつながりなのだけど何故かそれが貴方に強く出てしまった。でも、貴方はまぎれもなく私達の子供で、和斗とも沙良とも同じ血が流れているのよ」
父は、納得できなければDNA検査をしてもかまわないとまで言った。
もしかしたら父も母もずっと苦しんでいたのかもしれない。母の涙、父の真剣な顔を見れば、ふたりが嘘を言っているとは思えず、僕は彼らの言葉をすんなりと受け入れたのだった。
年を重ねるにつれ、子供の頃よりもハーフっぽい風貌は目立たなくなってきた。
それでも、外見から勝手にイメージを作られることは多く、次第に僕は自分を見失っていった。押し付けられたイメージの中で生きていくうちに、自分が本当に好きなものが何なのかすらわからなくなって。
苦しくなっていた。
まるで深く暗い海の中に沈んでいるような苦しさ。息も出来ないような苦しさ。
苦しくて、苦しくて……
―― 溺れるっ
と思った瞬間、ザァーと降る雨の音で目が覚めた。
夢を見ていた。妹の沙良に無邪気に問いかけられたあの時の夢。そして、海に沈んでいく夢。
「夢か……」
部屋に充満する梅雨独特の蒸し暑い空気。
僕はベッドから起き上がると、キッチンへ行き冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを出した。シンク脇に伏せていたコップに水を注ぐ。
殺風景な部屋に雨音だけが響いている。
まるで僕のみたいだ。空っぽな僕のような寂しい部屋。
手にしていた水を一気に飲み干しリビングに戻ると、ローテーブルの上に置かれた2枚のチケットが目に入った。
彼女は来てくれるだろうか。
明日、珈琲喫茶へ行こうと思う。雨が降っていなくても。
「いらっしゃい」
リンリンと鳴るドアベルを開けると、いつものようにカウンター越しにマスターが出迎えてくれた。
でも、いつもなら続いて聞こえるはずの彼女の声が今日はない。
「もしかして、麻友ちゃんかい?」
珍しく誰もいない店内。入り口で立ち止まった僕に、マスターが問いかけた。
「え、ええ」
僕はいつもの席ではなく、マスターのいるカウンターへと向かう。
「麻友ちゃんは今日はお休みだよ。体調が悪いって」
「体調が悪い?」
「ああ。昨日と一昨日と雨に濡れて熱が出ちゃったらしい」
「熱…」
マスターは珈琲ミルのホッパーを開けるとひとり分の豆を入れ、スイッチを入れた。豆を挽く音と香ばしい香りの中、僕は彼女が熱を出したという言葉にカウンターの前に立ち尽くした。
「まあ、熱といっても微熱程度だって言っていたから、そんなに気にしなくて大丈夫だよ。―― どうぞ」
そんな僕を見て、マスターはカウンターの椅子をすすめる。マスターは昨日彼女が濡れた原因が僕だって知っているようだった。
「あ…はい。そうですか…微熱ですか」
「うん、念のため休みたいって。―― 今日のお勧めはマンデリンだけど、それで良かったかな?」
「え、ああ、はい。お願いします」
そう言う間にもマスターは手際よく珈琲を落とし、いつものカップに挽きたての珈琲を注いだ。店内にマンデリンの奥行きのある芳醇な香りが広がる。
「はい。どうぞ」
「すみません」
マスターの言葉に少し安心した僕は、入れてもらったマンデリンを口に運んだ。口の中でコクのある苦みと、その奥にあるまろやかな甘みが広がる。僕は数口それを味わい、カップをソーサーに戻すと、上着の内ポケットから封筒を取り出した。
「あの、これ」
「ん?」
「彼女を誘おうと思っていた個展のチケットです。申し訳ないですが、マスターから麻友さんに渡してもらえませんか?」
本当は、直接彼女に渡したかったが、仕事のスケジュール的にここへ来る時間はもうない。
マスターはカウンターの上に差し出された封筒をチラリと見ると、僕に確認するように聞いた。
「…いいけど、渡すだけだよ」
「ええ、構いません。ひとつだけ一緒に伝言をお願いします。日曜にここで待っていると」
「――了解。それはちゃんと伝えておくよ」
「ありがとうございます」
マスターは僕から封筒を受け取ると、少し考えるような顔をしたのち、ゆっくりとした口調で話し始めた。
「僕はね、麻友ちゃんの笑顔が好きなんだ」
「は…?」
「彼女の笑顔って弾けるような感じじゃなくて、ふわぁって花が綻ぶような優しさがあってね。それが、なんて言うのかな…心を癒してくれるような感じで好きなんだ」
「……そうですね」
マスターは良く見ていると思った。全く同じことを思っていた僕は、マスターの言葉に頷く。
でも、マスターが本当に言いたかったのはこの続きだった。
「だから、――― 大丈夫…だよね?」
「え?」
「あの笑顔は…消えないよね?」
ああ…そうか、マスターは心配しているのか。僕が遊び心で彼女を誘っていないか。彼女を泣かせるようなことをしないかって。
「僕も笑顔の彼女が一番好きです」
僕が彼女を泣かせるわけがない。誰よりのあの笑顔を大切に思っているのは僕自身なのだから。
「だから、大丈夫です」
マンデリンの香りの越しに、僕は心配げに確認するマスターの目を見つめて頷いた。
2012-06-21
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