待ち合わせに指定された店は少し分かりづらいところにあった。カーナビを頼りに住宅街を走り、一見民家のようなフレンチレストランにようやく辿り着いた時には、もう約束の時間をまわっていた。
「斯波、ここだ」
店に入ると、僕に気付いた関谷さんが懐かしい笑顔で手を振った。大きな身体、顎にたくわえた髭。フレンチレストランには似つかわしくない風貌は探すまでもなくすぐに目に入る。
「お久しぶりです」
「おう待ってたぞ、座れ座れ」
連絡はとっていたが、実際に会うのは何年ぶりだろう。
「遅れてすみません」
「いや、いいよ。こっちだって急に呼んだんだから」
関谷さんは僕の大学の大先輩で、神戸で設計事務所を経営している。たまたまこっちに来ているから会えないか、とメールを貰ったのは昨晩遅くのことだった。
「今日は車か?」
「はい」
「じゃあ飲めないか。なんだ、残念だな」
「すみません。ちょっと電車じゃ間に合いそうもなかったので」
テーブルに来たウェイターにペリエを注文すると、関谷さんは飲んでいたワイングラスに口をつけながら聞いた。
「今日、用事があったんだろ? 悪かったな」
「いえ。大丈夫です」
彼女を彼女の家の近くまで送り届けたのは夕方。それから自宅に戻って車を飛ばした。じゅうぶん間に合うと思っていたけど、思いのほか分かりづらい場所だったせいか結局は遅れてしまった。
「ここは少し分かりにくいですね」
ウェイターがペリエと一緒に、おしぼりを差し出すのを受け取る。長い運転で汗ばんだ手をそれで拭った。
「そうだろ?でも、口コミでかなりの人気らしいぞ」
確かに、こんな不便な場所なのに店内は客で埋まっている。まだ料理は口にしていないから分からないが、店の雰囲気はかなりいい。
「ここ、俺がデザインしたんだ」
店内を見回していた僕に、関谷さんは声を潜めて言った。
その言葉は意外だった。関谷さんの事務所は家のデザイン設計だけをするものだと思っていた。
「店舗のデザインもするんですか?」
「ああ、最近少しづつ仕事の幅を広げている。今日は不具合がないかの確認と、もうひとつ店を出したいからって呼ばれてな。ちょうどお前にも会おうと思っていたから良かったよ」
「すみません、今度、あっちに行く予定があったのでその時にもう一度連絡しようと思ってました」
「いいさ、こっちも早く会いたかったし。それより、佳作、おめでとう」
関谷さんはそう言うと、飲んでいたグラスを少し高く上げた。
「ありがとうございます」
「で、どうすんだ? こっちに来るのか?」
関谷さんは早速本題に触れた。
あの日、佳作に入選したと知った日に僕が真っ先に連絡を入れたのは関谷さんだった。
「そのつもりではいますけど、まだクリアしなければならない問題がありまして」
「問題って、なんだ? 会社か?」
「いえ。実は社にはまだ言ってません。もう少しで抱えている物件が終わるのでそれから言おうと思ってます」
「そうか。それ次第か」
公園横のマンションはもうすぐ終わる。神戸のプロジェクトも加納を中心に動いていくだろう。僕が退社しても会社にはさほど影響はないと思う。それに僕自身も辞めることに未練などない。
「ええ…まあ」
「なんだ。他にも問題があるのか?」
言葉を濁した僕に気付いたのか、関谷さんの声のトーンが下がる。
「いえ、問題というほどではないんですけど…」
ただ、こっちを離れ神戸に行く為にしなくてはならないことがふたつあった。ひとつは、実家の了解をとること。
「まず、一度神戸に戻って実家に行きます」
「ああ、そういえば斯波の家は神戸だったな」
「はい」
「そうか。家の人にはもう話したのか?」
「いえ、まだ兄にだけしか言ってません」
実は今回の受賞も会社を辞めて神戸に戻ろうと思っていることも、まだ兄にしか話していなかった。
「ほう…、なんでだ? お袋さんなんかお前が戻って来るって聞いたら大喜びだろ?」
「ええ。…でも、神戸に帰っても家に戻るわけではありませんから。それに、父親が賛成するとはわかりませんし」
父親は比較的大きい会社の重役まで勤めた人間だ。入社してから定年まで勤め上げるという考えを持っており、今回の件を聞いて必ずしも賛成してくれるとは限らない。
「…ふうん」
関谷さんは運ばれてきた前菜にフォークとナイフを入れる。そして、大きな手で器用に小さく切ったテリーヌを口に運んだ。
「まあ、親父さんに反対されてやめるような年じゃないだろう」
関谷さんの言う通り、家の方は説得する自信もあるしどうにかなるだろうと思っていた。
今一番の問題は、彼女のことだ。
今日、ようやく付き合いを始める一歩を踏み出したばかりなのに、いきなり遠距離というわけにはいかないだろう。
「―― ええ、そっちは問題ないです。あとは……」
歯切れの悪い僕の言い方でピンときたのか、関谷さんは窺うように僕の顔を覗き込んだ。
「女か?」
このひとは若くしてに設計事務所を立ち上げる豪快さの中に、芸術家の繊細さも持ち合わせている。ひとの心の中を読むのに長けている。
「―― ええ」
僕はグラスの水滴を見ながら、昼間のことを思い出す。
雨の雫が流れる窓ガラスに映る困った表情の横顔。戸惑いで揺れる睫毛。深く考えこむ瞳。
そして、雨上がりの光の中、柔らかに微笑む彼女を。
2012-07-08
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