「メールの返事も来ないし、電話にも出ないから心配したよ」
絢斗さんは私に傘をさしかけたまま、同じ目線になるようにしゃがんだ。
いつもと変わらない優しい話し方、優しい声。その自然さは、ふと、自分が聞いたことや、あんなに泣いたことが嘘だったんじゃないかと思わせる。でも、これは間違いないこと。
「もう…優しくしないで下さい」
お願い、もう勘違いさせないで。その優しさを向ける相手は、私じゃないのに。悪戯に心を乱させないで。私は、絞り出すような声でお願いをする。
絢斗さんは、顔を伏せた私の頭にポンと手を置いた。
「麻友。もしかして、あの留守電…聞いた?」
「――…」
私は無言で頷いた。
「やっぱり、そうか」
絢斗さんの小さな溜め息。
まだはっきりさせなくてもいい、なんて思っていたけど。思っていたより早く、お別れする時がきたみたい。私は、胸の痛みを押さえるように服の胸元をぎゅうっと握りしめた。
「麻友ちゃん。―― 勘違いしているよ」
胸元で強く握っていた手が緩んだ。顔を上げ、絢斗さんの顔を見つめる。
「―― え」
「あの電話で言っていた家の設計図って、僕と彼女の家じゃないよ」
私が聞き返す間もなく、アパートの前に止まっていた車の扉がガチャリと開いた。あれは、絢斗さんの白い車。そして、降りてきたのはハイブリッドティ・ローズの人と―― 黒王子。
絢斗さんは私を一緒に立ち上がらせると、こちらを見るふたりに軽く手を上げた。
「悪い。車、乗って行ってくれないか」
「いいけど…、大丈夫なのか?」
その問いかけに、絢斗さんは「ああ」と頷く。私は、何が起こっているのかわからなかった。
「わかった。じゃあ…。あ、斯波。図面、ありがとうな」
―― え、図面?
図面という言葉に、私がはっとして顔を上げると、あのバラの人が申し訳なさそうに私に頭を下げた。私は、 ふたりが乗り込んだ車が走り去っていくのを呆然と見送る。
「もしかして……」
「そう。設計図ってあいつらの家だよ。みんな建設会社にいるけど、実際、個人宅の図面ひけるのって僕ぐらいでね。頼まれた」
そういえば、絢斗さんの部屋には建築の本や資格の本がたくさんあった。それに、図面をひく斜めの机も。
「じゃ、じゃあ。お遊び期間っていうのは…」
私は、となりの絢斗さんを見上げた。
「それは、いつまでも現場で遊んでいないで、企画に戻って来いってこと。遊んでいるつもりなんてないのにね」
絢斗さんは、少し困った顔で笑った。でも、私は笑えない。
全部、私の勘違いだったの? 私は勝手に勘違いして、勝手に悲しんでいたの?
「ご、ごめんなさい…」
私は、両手で口元を押さえた。私ったら、絢斗さんのメールも電話も無視をして心配をかけてしまった。謝ったきり言葉をなくした私の頭を、絢斗さんは自分の胸元に引き寄せた。
「―― 聞いてくれれば、良かったのに。―― 聞けなかった?」
「そ、それは…」
私は自分に自信がないから、不安に負けて勘違いをした。自信がないから、素直に絢斗さんに聞けなかった。絢斗さんを信じていれば、素直に聞いていれば、なんでもないことだったのに。絢斗さんの言葉が胸に突き刺さる。
「ごめん、そんな顔しないで。たぶん、悪いのは僕だから」
「…え?」
「麻友ちゃんを不安にさせたのは、きっと僕のせいだよね」
絢斗さんが、「ごめんね」と悲しげに小さく笑う。その顔を見て、私の目から大粒の涙がポロリと零れた。
「つ…っ」
擦れて血の滲んだ踵に、絢斗さんがバンソーコーを貼った。
「あの喫茶店、閉店するんだってね」
「え。知っているんですか?」
「うん。この間、麻友ちゃんを迎えに行った時、マスターから聞いたよ」
そっか。あの私を待っている時にマスターは絢斗さんに言ったんだ。
「今日は、就活だったの?」
「はい。―― でも、全部ダメでしたけど」
私は、ヒョコヒョコと足を引きずりながらキッチンに行くと、冷蔵庫からアイスティを出しコップに注ぐ。小さなトレイにふたり分のコップを乗せ、部屋の真中にある小さなローテーブルに置き、一緒に洗いたてのタオルも渡した。
私の部屋は1K。ひとりなら十分な広さだけど、男の人がいるといつもより狭く感じる。
「すみません。狭くて……」
ベッドに背中を預けるように座り、タオルで服を押さえている絢斗さんの横に私は腰をおろした。絢斗さんは私の言葉に、「ううん」と首を振る。
「麻友ちゃんの部屋、綺麗に片付いているね。料理も上手いけど、家事は得意なの?」
「得意っていうか、好きなんです。でも…、そんなの社会では役に立たないんですね、今日痛いほど分かりました。仕事も見つからないし、1日歩いただけで足もこうだし。もう、ダメダメで…」
今日一日で、自分の無力さをどれだけ思い知らされたんだろう。 あんな大きな会社でバリバリ働いている絢斗さんやあの人達とは違うんだって、つくづく感じた。
私は少し自嘲気味に苦笑して、アイスティを口に運んだ。
「麻友ちゃんはダメじゃないよ。寧ろ、僕の方がダメな奴かも」
「え、どういう意味ですか?」
「僕ね、麻友ちゃんに会う前…、自分の仕事を投げ出していたんだ。職場放棄してた」
絢斗さんの思いもかけない言葉に、私は目を見開いた。カラリとコップの氷が音をたてて溶ける。
「絢斗さんが…、職場放棄?」
「うん、そう。少し長くなるけど…、聞いてくれる?」
絢斗さんは、アイスティを一口飲むとベッドに寄りかかり、大きく息を吐いた。
2011-07-01
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